「吉展ちゃん誘拐殺人事件」は、1963年3月31日に東京都台東区入谷で起きた男児誘拐殺人事件です。

 

日本で初めて報道協定が結ばれた事件であり、この事件から被害者やその家族に対しての被害拡大防止・プライバシー保護などの目的で、誘拐事件の際には報道協定を結ぶ慣例が生まれました。また、報道協定解除後の公開捜査でも、テレビを本格的に使い、犯人からの電話を公開して情報提供を求めるなど、メディアを活用して国民的関心を集めた初めての事件でもありました。

 

犯人が身代金奪取に成功したこと、迷宮入り寸前になり事件解明まで2年3ヶ月を要したことなどから当時は「戦後最大の誘拐事件」といわれていました。

 

 

事件の経緯

  • 1963年3月31日…東京都台東区入谷町に住む建築業者の長男・村越吉展(当時4歳)が近所の公園に遊びに出かけていたが行方不明に。両親は迷子を疑い警察に通報。
  • 4月1日…警察の聞き込みの結果、公園で被害者が「30代男性」と会話していたという目撃情報を得たため、警視庁捜査一課は誘拐の可能性ありとして捜査本部を設置。
  • 4月2日…身代金50万円を要求する電話が入る。報道機関に対して報道の自粛を要請し、「報道協定」が結ばれる。
  • 4月3日…犯人から「子供は返す、現金を用意しておくように」との電話が入る。
  • 4月4日…再び身代金を要求する電話が入る。家族が被害者の安否を確認させるよう求め、電話を4分以上に引き伸ばして通話の録音に成功。後に公開された音声はこの時のもの。
  • 4月6日1時40分…犯人から「子供は寝ている、これから金を持ってくる所を指定する」との電話が入る。
  • 5時30分…再び犯人から「上野駅前の住友銀行脇の電話ボックスに現金を持って来い、警察へは連絡するな」との電話が入る。母親がすぐに指定された電話ボックスへ向かうが、犯人は現れなかった。
  • 23時12分…犯人から「今朝の上野駅の電話ボックスは危なくて近寄れなかった、今度は証拠として子供の靴を置くからそこへ現金を置け、場所はまた後で連絡する」との電話。
  • 4月7日1時25分…犯人から「今すぐ(母親が)一人で金を持って来い」との電話。犯人指定の場所へ身代金を置く。警察が見張り出すまでのわずかな時間差をついて犯人は身代金を奪い逃走。以降、犯人からの連絡は途絶え、被害者も帰ってこなかった。
  • 1965年7月4日…小原保(32歳)を営利誘拐・恐喝容疑で逮捕。小原は「誘拐した夜、南千住のお寺で被害者を殺し墓地に埋めた」と自供。
  • 7月5日…円通寺境内で白骨化した被害者の遺体を発見。

 

 

捜査

捜査は長引き、犯人を逮捕するまで2年の歳月を要しました。捜査が長引いた原因は、当時はまだ営利目的の誘拐が少なく、警察に誘拐事件を解決するためのノウハウがなかったため、身代金の紙幣ナンバーを控えていなかったり、犯人からの電話を逆探知していなかったことが災いしたといわれています。

 

また、被害者がすぐに殺害されていたことを警察が知らなかったことや、脅迫電話の声の主を「40歳から55歳くらい」と推定していたため、犯人像を誤って誘導してしまったことも捜査が長引いた原因といわれています。報道協定を結びましたが、結局はマスコミを通じて情報提供を依頼することとなりました。

 

1万件に及ぶ情報が寄せられ、中には有力な情報もありましたが、直後の逮捕には繋がりませんでした。事件発生から2年が経過した1965年3月11日、警察は捜査本部を解散し、「FBI方式」と呼ばれる専従者を充てる捜査方法に切り替えます。

 

有力な手がかりとされていた電話の録音テープについて、当初警視庁科学警察研究所の技官・鈴木隆雄に声紋鑑定を依頼しましたが、当時は技術が確立されておらず、上手くいきませんでした。

 

しかしその後、東京外国語大学の秋山和儀に依頼した鑑定で、「時計修理工の小原保とよく似ている」とされたことに加え、刑事の地道な捜査によって小原のアリバイに不明確な点があることを理由に参考人として事情聴取が行われました。

 

 

アリバイ崩し

小原には誘拐発生の1963年3月31日と最初の脅迫電話があった同年4月2日の両日、郷里の福島県内で複数の目撃者が存在していましたが、担当刑事の平塚八兵衛らは徹底的なアリバイの洗い直しを実施しました。3月31日の目撃者は雑貨商を営む老婆で、親戚の男性から野宿をしている男を追っ払ったという話を聞いた翌日に、足の不自由な男が千鳥橋を歩いているところを目撃したと証言しました。

 

裏付け捜査により、この男性はワラボッチ(防寒のために植物にかぶせる藁囲い)で野宿している男を追っ払った後、駐在所に不審者について報告し、放火されることを防ぐためその日の夕方にワラボッチを片付けていました。その日付は、駐在所の記録で3月29日であることが判明します。つまり、老婆が小原を目撃したのは、その翌日の3月30日であることが分かりました。一方4月2日の目撃者は、この男性の母親でした。十二指腸潰瘍を患っていた孫が、一時中断していた通院を再会した日に小原を目撃したと証言しました。

 

裏付け捜査により、この孫は2月2日から3月8日まで通院し、その後3月28日と4月2日にも通院している記録が残っていました。しかし、当日の孫の腹痛は前夜の節供での草餅の食べすぎが原因と判明します。節供とは上巳の節供のことで、この土地では旧暦で祝っていました。

 

その年の旧暦3月3日は3月27日であり、病院に運ばれた日=目撃した日はその翌日の3月28日ということが分かったのです。さらに小原は、3月29日に実家に借金の申し入れをしに行ったものの、何年も帰省していない気まずさから実家の蔵へ落とし鍵を開けて忍び込み、米の凍餅を食べて一夜を明かしたと供述していました。

 

しかし、小原の兄嫁によれば、当時は落とし鍵ではなく既に南京錠に替えられており、また、その年は米が不作だったため凍餅は作らず芋餅を作っていたこともわかりました。こうして小原のアリバイは崩れ、またその課程で足が不自由なのにも関わらず、身のこなしは敏捷であることも判明したのでした。

 

また、身代金が犯人に奪われた直後の一週間で小原がほとんど収入がないのにも関わらず、42万円もの金額を支出していたことも明らかになりました。

 

 

取調べ

小原は当初取り調べに対し、黙秘を続けていました。金の出所については「時計の密輸話を持ちかけた人物から横領した」などと述べますが、その人物の具体的な情報は話さず、その点は嘘であることを認めたものの、それ以後は再び黙秘。平塚をはじめとする刑事たちは、金の出所以外の供述にも嘘があるのではないかと何度も問いただしますが、これにも答えなかったため、福島で調べてきたアリバイの矛盾点を小原に突きつけました。

 

追い込まれた小原はそれまでの「東京に戻ったのは4月3日である」という主張が事実とは異なり、4月2日には東京にいたことを「日暮里大火を山手線か何かの電車から見た」という形で認めました。この火災が発生したのは1963年の4月2日の午後でした。

 

それからほどなくして小原は当時持っていた金が吉展ちゃん事件と関係のあるものだと供述しました。7月4日に警視庁に移された小原は、営利誘拐・恐喝罪で逮捕され、その後の取調べで全面的に犯行を自供しました。

 

 

動機と殺害理由

小原は犯行当時、台東区御徒町の時計商を解雇され、取引先から借金の返済を迫られていました。そんな時、映画「天国と地獄」の予告編を観たことで犯行を決意し、計画しました。

 

被害者が身奇麗だったことから金持ちの子供と考え、被害者が持っていた水鉄砲を誉める形で誘拐しました。しかし自身の足が不自由なことを被害者に悟られたため、被害者を親に返せば足の不自由な自分が犯人と特定されてしまうと考え、殺害に及んだと供述しています。

 

身代金の脅迫電話を掛けた1963年4月2日には、既に被害者は殺害された後でした。

 

 

 

裁判とその後

1966年3月17日、東京地方裁判所が小原に死刑を言い渡しますが、弁護側は計画性はなかったとして控訴します。同年9月から控訴審として計3回の公判を行いますが、11月に東京高等裁判所は控訴を棄却。弁護側が上告しますが最高裁判所は上告も棄却し、1967年10月13日、死刑が確定しました。

 

それから4年後の1971年12月23日、死刑が執行されました。享年38でした。小原が処刑直前、平塚八兵衛あてに残した「私は今度生まれるときは真人間になって生まれてきます。そう平塚さんに伝えてください」という言葉はあまりにも有名です。

 

平塚は1975年に退職した後、自分が逮捕した犯人で死刑となった者たちの墓参りに行きましたが、小原の墓参りに行った際、彼が先祖代々の墓に入れてもらえず、その横の小さな盛り土がされただけのところに葬られていたことに愕然とし、盛り土に触れた後泣き崩れたそうです。

 

現在、墓の移転に伴って小原が葬られていた盛り土は崩され、遺骨は行方知れずとなっています。

 

 

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